20240501 伝える音楽

中森明菜の「恋の予感」を聴いた。全盛期に比較すれば、声は弱いし音程も不確かだが、心に響くものがあるし、その響き方は私の場合、尋常でなく大きなものだった。何が伝わってきたのか、何を受け止めたのか自分でもわからないけど、落涙しそうになるような感情の動きが確かに自分の中で起きたことに驚かされた。

 

こういう不思議なことは、音楽にはたまにある。例えばビリー・ホリディ。これは小さい、音程も悪い、加えて録音状態も良くないし英語だから歌詞もわからない。でも、伝わってくる。例えばオーティス・レディング。もっと上手な歌手は山ほどいるだろうに、魂が確かに伝わってくる。例えばニール・ヤング。声も変だし、ギターも下手だし、声量もなく、音程も怪しい。でも聞き入ってしまうのだ。

 

逆に、歌唱の技術、演奏の技術は素晴らしいのにちっとも心に響いてこないケースだってある。マイルス・デイヴィスがフレディー・ハバードを評して「セックスアピールのない女みたいだ」と。ハバードの演奏技術は素晴らしい。完璧だ。でも心に響いてこない。マイルスの場合は、複雑な技術を駆使するときもあるにせよ、基本的に一音、吹き鳴らしただけで聞き手を感動させるようなところがあるし、それが個性になっている。

 

この「心に響く」という現象が何なのか、私はかねがね不思議に思っています。楽器演奏に熟達するためのトレーニングというものはそれぞれの楽器においてシステム化されており、それをこなせば技術面での上達はすることになっているけど、出来上がりはセックスアピールのない女なのか。それでは意味がないと思うし、それは音楽を学ぶことになっていないのではないでしょうか。

 

音楽の存在意義というか、なぜ音楽が生まれ、これまで人類と共にあったのかを考えるに、それは「伝える」ものであると。逆に言えば伝わるのであれば1音でもよいと思うのです。極端な話ですが、仏具の「おりん」であっても、1音で心を沈めてくれる場合がある。技術要りません。

 

となると音楽の修行とは、何をどうすればよいのでしょう。何かを伝えるためには一定の技術は当然必要だとして、その技術習得に集中してしまうと、肝心な伝えるもの自体が心の中に育たないという弊害も生じるような。世の中の「技術はすごいけどつまらない音楽」は、技術習得に時間を費やすあまり、伝えるべき何かを置いてきぼりにしてきてしまった演奏家たちによって生み出されているのではないかと疑います。

 

一方で、天才はいるもので、例えばバイオリンのひまりさんは、小学生なのにとても濃い感情表現をする。技術はとんでもなく高い水準にあり、だからこそ可能となる感情表現をやってのけてしまう。天才は、技術の習得も短時間(数年間)で済ませられるし、伝えるべき何かはどこから身につけるのかわかりませんが身についてしまう。美空ひばりさんなども、そうだったのでしょう。

 

思うに技術しかない音楽は、俺の技術を聞いてくれというのが伝える内容になってしまっているのでしょう。私のこのファッションを見て、みたいな。マイルスにせよ美空ひばりにせよ、技術とは別に、伝えるべきものを持っている。持っていることが、伝わってくる。そういう世界に住んでいる。それがなんであるのか、言葉で表せないところに音楽の存在意味が実はあるのでしょう。私の感覚ではそれは「魂」としか言いようがない。